11月30日は人生会議の日。
厚生労働省が「人生最終段階の医療・ケアに関するガイドライン」の推奨、並びに事前に「アドバンス・ケア・プランニング」を行えるような土台を作り上げるために、一般向けの啓蒙を目的に設定されました。
一般向けの方向けへの「愛称を募集する」という形で、「人生会議」の名前も昨年できました。
今年は啓発するということで、この秋からはノイズを高めて来ています。
厚生労働省では、ポスターが作成されたようです。
この取り組みについて医療従事者向けに参加された神戸大学により、人生会議のことについて医療者側から一般むけに情報提供をしているサイトも出来上がっています。
(余談:ちょっと、こちらのサイト大丈夫です?まだhttpsでないサイト作ってます。頼みますよ。一生懸命ニュートラルに考えようとしても、どうなんでしょう?)
この両者の違いは一体何でしょう。
その人その人の立場・経験で受け止めるものは違いますが、これが現実だと受け止めています。
意識の差、近いか遠いかの差、価値観の差、現役世代であるか、死に初めて直面し感じた人、によって大きく変わってくる。
まさに「人生に対する現象学」ともいうべき表現になりました。
価値観・思想・思考の深さ、経験値などすべてが積み重なった結果、異質に感じるかそうでないかになるのだろうなと。
そして、一般の方は、このトーンなんだろうな。
とも思っています。
私は多くの在宅医療を行う先生方や人生最終段階の医療やケアについて考えに考えている医師・看護師・薬剤師他、コメディカルの方達に出会うことができました。
その方達の考えと、一般の方との差が大きいことについてどう埋めればいいのかを考えてきました。
40代、50代の現役社会人世代にこの状況がどれほど伝わってるか。
と言うと、私はこの広告のレベルで十分フィットしているのではないかという感覚があります。日本人の正規分布からすれば、意識の中央値ではないかと。
それは、
「そもそも、みんな死にたくない、考えたくない」
ことだから
「やっとかなあかん」ことを
「仕組みに入れることで」
「解決できることは解決する」
ということなのでしょうね。
実は私は一部賛成ですが、他の様々なことと同時進行すべきなものではないかと思っています。
本気で突き詰めると
100%やってくる死へ向けて、「生きる」を考えることであり、
毎日満足した日々を送ること
どんなに体が弱ってもその人として尊重され、生きずらい社会なら改善する
(生きづらい社会があるから変えていく)
でも、行政が何故やったのかを少し考えて欲しいところは正直あります。
医療制度そのものが息詰まっていないか。
社会保障を支える経済も息詰まっていないか。
医療は、「命を救う場所」ですが
まずは医療従事者の方が人生会議を実践して公表して欲しいです。
第3者評価に入れて欲しいくらいです。
2018年4月に診療報酬の一部に「人生最終段階の医療・ケアのガイドラインに沿う」ことが組み込まれた時点で、私は、相当残念に思うことが沢山ありました。
突然このフィールドに興味を持ちはじめ、そこに向かって「にこやかに」やらなければならないと声を上げ動き始めた医療従事者の人たちに出会いました。
それまでに沢山ご苦労している方ならともかく。
地道にここの患者さんの思いを受け止め実践している先生たちならともかく、突然、「やっておくべきだよねー」と。
私は、医療は命を活かす場所、救う場所であって欲しいから、あえて「終活」の場で、自分の収益の一部を捻出し「自分で考える」「自分で決める」「でも専門家に頼れる」ために情報を、医療や介護に関わる前に知っておくことを主体に保健行政外の枠内で対応してきました。真剣にやればやるほど業績は低迷です。それが現実です。
医療機関の皆様も保険診療報酬があれば動いてくれるわけで、結局そういうことなんだなーと。
経済も含めた社会が全部動けばとすべてがうまくいくことであって、すでに、それが壊れてしまってきたからではないでしょうか。
それにしても、医療従事者の方は、それぞれ、人生会議をきちんとやっているのか?
実は行っている方はあまりいないのではないでしょうか。
と長々と書きましたが、まずはこちらで投稿してしまいます。
気分を悪くした関係者がいらっしゃったらすみません。
私が「両方」を行ったり来たりすると感じることは
伝わってない
伝わってる社会がない
それを動かす起爆剤にはなっている
炎上も、同感もあり
そういうことなのかなと思っています。
珍しく宣伝します。赤字事業です(笑)。