医療・介護の鍵diary

健育社代表がガツガツほのぼの医療介護を語るページ

「認知症のよぼう(予防)」→ 認知症の「き」ぼう(希望)

平成終わりのインフル侵入防御からの令和に入ってからのChange!

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昨日は、非常に久しぶりに医療法人悠翔会の在宅医療カレッジに参加しました。

こちら5月25日からの学会大会長 東京慈恵会医科大学 繁田雅弘先生。

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先生のタイトルには「認知症の予防」という言葉が含まれ、

? 繁田先生が予防の話をするとは思えない。では何を?

 

認知症の希望」(よ→き)に修正。という内容。

 

家族の思いと本人の思いの間に重なる 「思い」 

医療・介護の 「手当」

このベクトルのずれ。社会のずれ。

 

そんな言葉が含まれていた学会告知フライヤーの内容をそのまま掲載してみる。

 

昔のままでいてほしいという期待。

 失敗を先回りできなかった無力感。

責めた後の後悔。

見え隠れする絶望。

家族への罪悪感。

弁明できないもどかしさ。

嫌いなケアと医療を拒否する権利。

動揺と戸惑いを受容する寛容さ。

許してもらうより失敗したくないという尊厳。

 

私たちは認知症の人の何を守るのか。

目標は不幸を減らすことではない。

テーマは「認知症の希望」

 

今まで私たち社会全体が行ってきた認知症治療、ケアに対する反省と、目標認識の再確認をする言葉たち。多くを語る必要はない。これらの言葉を自分に問うてみると見えてくる。

 

私の中で「なるほど」と感じたこと。

 

1)「許してもらうより失敗したくない」という尊厳。

皆誰しも失敗したくない。成功者でありたい。

(私は多くの失敗をしているので最近は免疫もついたが)

「失敗しない手前のことを成し遂げ続ける」

という視点での医療やケア。声かけ。

快い時空に周りもご本人も感じられるテーマそのもの。

これは別に日常でも言えることではないか。

 

2)薬物療法を受ける権利・受けない権利

これはフロアからの質問で出てきた内容。

(薬剤師・医薬品情報提供資料を作る立場からの視点での興味)

認知症の薬が処方されたがMCI(軽度認知障害)であったため、家族の判断にて服用しなかったという話。

大意の流れでは

高齢者のポリファーマシーはNG、

認知症の治療薬はともすれば悪のように伝えられる事が増えてきてしまっている。

 

しかし、「薬物療法の必要を奪う周囲の判断」はどうだろうか。

その判断は正しい判断と言い切れるのか。

先生は、適切な診断を受ける重要性をお話しされた。

長谷川式認知症スケールのみではその判断はできない。

その見立てをしっかりしてこそ、適切な治療。

それを周りが決めていいのか、本人はどう思うのか。

というお話。

(それを医師や薬剤師に問えない環境になっている

現状こそが変えられる事と私は捉える)

 

実は、私には、少なからず薬に対する問い合わせがやってくる。

大丈夫でしょうか。

と。

製薬企業での問い合わせ事例の対応文書を作成していた経験からも言える事だが

「言えない環境を作り出していないか問題」

を考えていただきたいな、と思う。

 

3)先回りしすぎ 

転ばないように、骨折して家族に訴えられたりでもしたら

事故でも起きたら

そもそも、拘束が必要なのはなぜか、拘束しないことから始めるには何が必要か

「この人、認知症なので話ができないのです」

と家族が言うが、そんなことはない。

本当は話せる。

「この人、帽子を家でも脱がないのです」

「なぜなら、常に頭の上に木々の枝先があって、当たってしまうと痛いから帽子は欠かせない」(幻視で見えるためそれを避けたいからそうしている)

 

この現象、以前出くわした事がある。

 

そうだ、「子育て」

 

危ないからやめておく、危ないことはさせない、先回りして守られた環境を作り上げる

 

危険がわからない人に成長する。

痛みを感じられない、共感できない人。

 

そんな社会の歪みがあちこちで出てきていないか?

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自らの行動も反省しつつ、

今は、認知症になっても、自分が認知症になったら楽しく暮らせる社会や仕組みを模索したいと一層感じた時間でした。

 

そのヒントを実践している方、実践したいと立ち上がろうとしている若いCRO勤務の薬剤師の方、IoT事業主の方など 様々参加なさっていました。

社会がようやく動いてきたような感覚をさらに感じたカレッジでした。

 

追伸)繁田先生は現在、クラウドファウンディング実施中

(最近多いな)平塚、羨ましいです。

 

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